問題を顕在化させるつもりはないが、少しだけ書いておこう。
陰謀史観はお話しとしてはおもしろい。
いや、おもしろいというより、わかりやすいと言った方が正確である。
自らの経験からしてもそうなのだが、社会学や人類学の理論に初めて触れた学生の中からは、「おお、この理論さえあれば、世に起きることのすべてを説明できる!!」と思い込む者が一定の割合で出てくる。「聖俗二元論」、「AGIL図式」、はたまた「過剰と蕩尽」などに触れて、世界の見え方自体が変容し、視界が一気にクリアになるのを経験した人は少なくないだろう。それは別に悪いことではない。さしあたりある理論に淫していても、それをあれこれの現象に当てはめて考えているうちに、理論とは世に起きることをクリアに見るための装置であるが、それはそれ以外のものを方法的に見えなくするものでもあることに気付けば別に何の問題もないのである。むしろある理論に深くはまってみた方が、その限界と可能性をギリギリのところまで理解するには適切だと言える。
これに対して、陰謀史観にはリミットというものがない。この世に起きることはみな「ユダヤ人の陰謀」だと考えれば、実にすっきりと、かつおもしろく説明できるのである。しかし、いくらおもしろくても、いかに複雑なストーリーを持っていようと、知的怠惰の産物であることに変わりはない。プロの研究者たるもの、間違っても陰謀史観などに淫してはならないのである。
ちなみに陰謀史観によると、坂本龍馬はほんとうはフリーメーソンだったんだそうな。
陰謀史観は、反証を予め排除した説明のシステムなので(反証も陰謀の一部だから)、基本的にはなんでもありである。しかし、お話しはランダムに生成するのではない。そこには語る者の妄想や欲望が無批判に注ぎ込まれる。しかも語っている当人はそのことに気付いていない(気付くくらいの自己反省性があれば陰謀史観などに淫することはないわけだ)。
— 陰謀史観は妄想の培養装置であるhttp://hayanagi-semi.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/scf_diary/scf_diary/